ファウストの時間 ① 【もっとも祝福されるべき日】

 そろそろ、区切りをつけるべきなのか。或いは――。

私の朝はいつも朝食の用意で忙しい。今も特製スープをじっくりと煮詰めている途中だ。そっとスープをお玉でひとすくい。啜るととろとろに蕩けたトマトの汁と鶏ガラが舌に絡みつく。胡椒のスパイシーな香りが鼻をくすぐる、が少し味が薄い。剥いたにんにくを一房分まるごと放り込んで蓋をする。後は十分ほど煮込んでおこう。
さて次は主菜の用意。桶に浸けておいたフライパンを丁寧に拭いてからかまどにに突っ込む。牛脂を引いて伸ばしながら、朝絞めたばかりの鶏の胸肉を放り込む。余りのにんにくをスライスし、レモン果汁と塩胡椒を混ぜたソースとともにフライパンに流しこむ。表面がこんがりとした飴色に変わってきた。タイミングを見計らって、乾拭きしたピカピカの食器に盛り付ける。リビングのテーブルに食事の用意をして、時間が経つのを待った。
「スフィア喜んでくれるかなぁ……」
ふぅっと溜息を付いて、パンの入ったバスケットの持ち手をとんとんと叩く。今日は特別な日だ。スフィアの機嫌を損ねてはいけない。
そのまま幾分か経った。誰かがどたどたと急ぎ足で階段を掛け降りてくる。私はコップにミルクを注いでドアの前で待ち構える。少し間をおいてから、ガラリとドアが開いて、一人の女性が部屋の中に入って来た。
「おはようスフィア。今日も背が伸びたんじゃない?」
私はそう言って彼女にコップを突きつける。もう背の高さが私と然程変わらない。むしろスフィアの方が大きく見える。彼女の成長をひと目で感じられる。
「おはようファウスト。……そんな一日で伸びるわけないでしょう?」
彼女はそう返してから、牛乳をごくごくと一気飲みする。よく見ると胸がはち切れんばかりに膨らんでいる。新しい服を買ったほうがいいだろうか。小さい時はここまで成長するとはおもっていなかった。
「おっぱいも大きくなったねスフィア。お姉ちゃんに似てきたよ?」
服の上から手を添えてそっと撫で回す。ぎゅっと力を込めると肉に指が埋まってしまいそうな程に柔らかい。乳頭の大きさを生地の上からでも確かめられる。あの人の胸と同じ形だ。大きさ自体はそこまでとは言わないが、まだまだ成長が見込める。
「んぅー、お腹減ったんだけど……」
そう言って彼女は私の手を払いのける。あんまり乗り気ではなさそうだ。まぁお楽しみは後に残して置いた方がいいだろう。そのほうが私も嬉しい。
「あぁ、そうだったね。食べ終わったらクリスマスの飾り付けしようね。まだ終わってないし」
「えぇ、楽しいクリスマスにしてねファウスト」
彼女の頼みにノーとは言えない。返事の代わりに彼女の唇目掛けてそっとキスをする。舌同士を交わらせて、唾液の味を確かめ合う。朝にはいい眠気覚ましだ。
「ん……上手くなったね。さぁご飯だご飯。早くしないとチキンが冷めちゃう。スープ取ってくるから先食べてて」
彼女の手を引いて椅子に座らせる。グツグツと煮えたぎる鍋の蓋を取って、お玉ですくい取る。熱々の湯気と共に沸き立つ出汁の香りが鼻の奥をくすぐり、私の食欲をかきたてる。少し味見、と少量を口に含む。鶏ガラスープが舌の表面にしっかりと絡みつき、私の味覚を十分に刺激する。これならスフィアも喜んでくれるだろう。小皿に盛り付けて、二人分をテーブルに持っていく。
スフィアはにこやかに微笑んでお祈りをしていた。よく見るとテーブルのチキンには手が付いていない。彼女の目の前にスープを置いてから、私も反対側の椅子に座った。
「待っててくれたの?」
「ん、えぇ、貴方が居ないと一日が始まらないじゃない?」
そう言って彼女は手を合わせたまま微笑み返す。やはりお姉ちゃんに似ている。顔も、髪も、性格はちょっとがさつだけど、根本的なところはお姉ちゃんにそっくりだ。
「はは、言ってくれるねスフィアは。さぁ、朝食を始めよっか」
「えぇ、良い食事を。ファウスト」
私達はそう言って一礼してから、朝食と共に一日を開始した。

◇◆

クリスマス、と書かれた箱を両手に抱えて、城の中庭に出る。一応空は快晴だが、地面は真っ白な雪に覆われていて、名も知らぬ山脈の木々と共に如何にもなクリスマスを作り出していた。正直もう少し早めにやっておけば良かったと後悔している。
「うぅ、寒い寒い。早いところ終わらせないとね」
一番大きなモミの木――と言っても城の二階と同じ程度の高さだが――その下に箱を置いて中から色とりどりのクリスマス用飾りを取り出す。赤や青のりんご型のボールに、天使を象った模型、ベル、モールにその他諸々。大きいのになると木のてっぺんに乗せる星型のツリートップなどなど。どれもこれもスフィアが選んだものだ。
「ふふっ、こんなのを欲しがるなんて、あの子もまだまだ幼くて可愛いなぁ」
そう言いながらクリスマス飾りの物色を続ける。それにしても、今年に限ってクリスマスの飾りをしてみたいだなんて、あの子も結構突然だ。いつもだったらプレゼントとキスだけで済ましていたのだが、今年だけは妙に張り切っている。まぁ、あの約束のこともあるのだろうが――。
「へぇ、誰が可愛いって?」
そう後ろから唐突に呼びかけられた。聞かれたか、と思いながら咄嗟に振り返る。目の前に毛皮のコートを着たスフィアが立っていた。袖口が膨らんでいて何枚も厚着していることが一目でわかる。とっても暖かそうだ。
「ってスフィア、やけに遅いと思ったらそんなに着てたの?」
「えぇ、それがどうかしたの?」
「どうかしたの、ってズルイよ。僕は一枚しか着てないよ?」
そう言いながら胸元のボタンを開けて、自分が下着一枚しか着ていないと言う事を主張する。もちろん肌寒いのですぐに閉める。やはりこの時期に肌の露出は辛い。
「むしろ貴方が着てなさすぎると思うんだけど……、まぁいいわ。じゃあ、暖めてあげればいいのね?」
そう言うと彼女は突然、私の背中に手を回して、ぎゅうっと力強く抱き締めてきた。彼女の柔らかな胸が布越しに押し付けられる。とても暖かい。心までとろけてしまいそうだ。だが、何故だか妙に寂しく思える。
「んぅっ……スフィアも成長したね。懐かしいな」
彼女の胸の中で、昔のことを思い出す。前までは私が抱き締める側だったのに、もうこんなに大きくなってしまった。それどころか、逆に私が暖められている。時間が経つのは早いものだ。
「あら、泣いてるの?」
「……泣いてないよ。むしろ嬉しい。君がこんないい子に育ってくれて」
顔を上げて彼女の目を見つめる。お姉ちゃんと同じ、優しい目をしている。きっとあの人と同じ優しい人になってくれるだろう。そう思うと、まだまだ育てがいがある気がして来る。
「よしっ、じゃあ次はいい女に育て上げるからね! まずはクリスマスの飾り付けからだよ!」
彼女の腕を振りほどいて、そう高らかに宣言する。スフィアが大人になるまで時間はまだたっぷり残っている。それまでに私ができること全てを彼女に教えなければならない。それこそが私がすべきことだ。
「ふふ、そうね、そうしましょう。これからも色んなこと、教えてねファウスト」
スフィアが笑顔で頷く。私達だけの至福の時間が始まった。楽しくて、心地良くて、とても有意義な二人だけの時間。できることならこの時の流れを留めていつまでも浸りたいとさえ思えた。
――どのくらい経ったのだろうか。太陽が少しばかり西に傾いていた。私は木に掛けたハシゴの上で、最後の作業に取り掛かっていた。大きな星を抱きかかえながら、ハシゴを一段一段慎重に登っていく。古い木製なので踏み付ける度ギシギシとひしめいて心が落ち着かない。おまけに今日は風が強く、いつハシゴが突風で倒れるかわからない。
「ちょっと揺れてるよー。根本しっかり抑えてー」
真下を覗いてスフィアにそう指示する。この高さで下を向くのは怖いが、上から見える彼女の谷間が少しばかり心を癒してくれるのだ。
「変なところばっか見ないでよ。早くつけないと危ないわ」
「ちぇ、はーい」
怒られてしまった。仕方がないのでとっとと完成させるとしよう。ハシゴの最上段に足をかけて、片腕で木の天辺にしがみつく。星の下部にある穴に天辺の枝を差し込み、紐を何重にも括りつけて結ぶ。ついに私達のクリスマスツリーが完成した。これで後は降りるだけだ。
「しっかり抑えててよね!」
そう大声を張り上げてから、再びハシゴに足を掛ける。今度はあまり軋まない。星がないからだろうか。慌てずにもう一段降りて確認するが、やはり軋まない。ただの重量オーバーだったようだ。無意識的にどっとため息が出た。
「はぁ、心配して損したよ」
そう安堵しながら、下の段に足を掛ける。バキンっと木材の折れる音が庭中に響いた。私の身体はその場に留まる為の支えをなくし、重力に逆らえず地面に向かって真っ逆さまに落ちていく。その一瞬の出来事は、私にとっては嫌に長く感じられた。
反射的に目を瞑る。意外にもあまり痛みや衝撃は感じられなかった。むしろ私を包み込むかのように柔らかく心地が良い。雪がクッションになったのだろうか。
「――ん、危ないから急に落ちて来ないでよ」
スフィアの声でそう囁かれる。目を開けると彼女の顔が眼前にあった。どうやらここは彼女の腕の中らしい。道理で雪とは思えないほどに暖かいわけだ。
「……受け止めてくれたの? やっぱ優しいんだ」
「まぁね、だってクリスマス早々に看護の仕方なんて教えてもらいたくないわ」
スフィアは皮肉交じりにそう言って、私を抱えたまま歩き出した。不思議と降りる気にはならない。もう少しだけ彼女のお姫様抱っこを味わっていたい。
「うーん、酷い出来ね。でも、初めてだし仕方ないわね。とっても楽しかった」
ツリーを眺めながら彼女はそう呟いた。確かに思っていたよりずーっと酷い出来だ。だけどスフィアの満足そうな顔を見ていると、これでも十分だと思えてくる。
「お腹減っちゃった。今日のお昼は何かしら」
「ふふ、今日のメニューは全品秘密だよ」
そう言って身体を起こし、彼女の唇を奪う。そのままキッチンに着くまでずっと私達はキスをかわし続けていた。

◇◆

私、スフィアの午後は長い。今もこうして暖炉の前にボーっと座り込んでいる。別にすることがないわけではない。火の熱で洗濯物を乾かしている真っ最中なのだ。部屋干しだと匂いが若干気になるが、この冬の時期に外干しなんてしたら真っ先に凍りついてしまうので仕方がない。
「んむぅ、何しようかなぁ」
私は深くため息をついた。ファウストは昼食を食べてすぐに、近くの街へ何かを受け取りに出かけてしまった。時間を潰す方法をなんとかして見つけないと、洗濯を終えたら本当にすることがなくなってしまう。……おまけに、寂しい。イブになるまであと四時間はあるが、それまでに帰って来なかったら徹底的にネチネチと問い詰めてやろう。
「もう、スフィアは繊細なんだからね」
気がつくとそううわ言のようにつぶやいていた。暖炉の炎が部屋の中を満遍なく暖めてくれるので、とても心地が良い。まるで春の陽の光に包まれているかのようで、浅い眠りへと誘おうとする。まぶたが鉛のように重い。私の意識は既に朦朧と恍惚を混ぜあわせたような状態になっていた。
「ちょっとだけならいいよね?」
誰もいない空間で私は誰に対してそう質問したのだろうか。とにかく心身ともにそんな細かいことを認識できるような状況ではなかったわけだ。そしてついにはまぶたが完全に閉じて、まったく開かなくなってしまった。このまま放置したら火事になりかねないということはわかっていたのだが、やはり誘惑には勝てない。「おやすみなさい」の掛け声とともに、私の意識は微睡みの中へと沈んでいった。

長い雪道をひたすら歩き続ける。先程から代わり映えのしない風景が続いていた。時折見掛けるエーデルワイスが心を癒してくれる。だが、よく考えるとエーデルワイスの開花時期は三ヶ月以上前のはずだ。それに確か寿命の短い花と聞いている。季節外れ、なのかどうかは詳しくは知らないが、なかなかしぶとい奴らだ。
ふと顔を上げる。原木が雪道の上に倒れてこんでいた。少し休むか、そう思い原木の上に腰を下ろす。ただでさえ整備されていない道なのに、更に雪が被っているのでとても歩き辛い。これを帰りも歩かなければならないのだから、心底思いやられる。
「ふぅ、やっぱ遠いなぁ」
帽子をとって額の汗を拭う。自分で言うのもなんだがこの青紫のシルクハットは私のチャームポイントでもある。お姉ちゃんが似合うと言ってくれたので被っていただけだったのだが、今となっては手元から放せないシロモノだ。と言ってももう四代目ぐらいになるが。確かこれはイギリスの帽子店で買ったものだ。黒味がかったすみれ色が中々気に入っている。
「少しヘタれてきたかな。帰ったら手入れするかぁ」
そう言って帽子を横に置く。日が暮れるまでにはまだまだ時間はある。夕食の用意は既にある程度済ませておいたし、帰ってから調理しても時間はかからないだろう。クリスマスと言えばやはりローストチキンに限る。
「んぅ、暑いなぁやっぱ。でも脱ぐと寒いよね」
下着が蒸れて気持ちが悪い。コートの胸元を開いて空気を中に取り込む。寒さには耐性があると自負しているが、暑いのはどうも苦手だ。冬の時期が一番居心地が良い。もちろん、夏は夏で水浴びができるし嫌いではない。
そろそろ行くか、そう思いすっと立ち上がる。街までは後三十分ほどで着くはずだ。ぐっと体を伸ばしてから帽子を忘れずに被る。深く深呼吸をして綺麗な酸素を取り込んでから、再び雪道を進み始めた。

「えへへ、おねーちゃん!」
「あら、なぁにスフィア。お腹でも減った?」
「おねーちゃん大好き! ぎゅーってして!」
「あらあら、慌てないで慌てないで。私も貴方のこと、とっても大好きよ」
「ずっと一緒にいようね。おねーちゃん」
「えぇ、そうね、ずっと一緒にいましょうね。ずっと――」

――ずっと昔の夢を見ていた気がする。



※工事中

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