ファウストとスフィア

 だから、私はこの子を求めたのか。それなら――。

 アルプス山脈に隣接する森林の奥。街から遠く離れ、近隣の村人も近寄らない暗い森の深くにその城はあった。
「うーん、ここだよね」
 馬車から飛び降りると、数時間ぶりの土を何度も踏み締めて土地の硬さを確認する。水分と栄養に富んだ滑らかな土だ。
「やっぱり聞いてたよりおっきいなー」
 城全体をぼーっと見回しながら、私はそうつぶやく。
入り口には腐り切った木製の大門が打ち捨てられ、苔生した外壁はだらしなく生えた蔦に覆われていて緑色をしている。ぱっと見た感じではだいたい三階建てぐらいだろうか。とりあえず、後でたっぷり整備しないといけないと言うことだけはわかった。
ふと、体の右半身に重みを感じる。私の肩ぐらいの背の少女が私にしがみついて震えていた。これから住むと言われた家があまりにも酷いものだったので恐怖を覚えたのだろうか。
「――怖いの? 平気だよ。僕がいるから」
 彼女を宥めるようにそっとその可愛らしい頭を左手で撫で回す。少女は嬉しそうに笑をこぼすが、抱きしめる力はより一層大きくなってしまった。
「ううん、嬉しいのよ。ファウストと一緒にこんな素敵な城で暮らせるのが、とても」
 少女はそう言って私の右手を両手でぎゅっと握り締める。彼女の暖かさが手を伝わって全身に広がっていく。とても優しくて心地の良い温もりだ。
「優しいね、スフィアは」
 私は彼女を名前で呼んでから、そっと両手で彼女を抱き上げる。スフィアは恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、すぐに私を受け入れるように抱き返してくれた。少女の柔らかい感触が私を包み込む。できることならずっとこうやって彼女を抱いていたい、とさえ思える。
「……さぁ、早く荷馬車を繋がなきゃね。今日中に部屋割り決めないと」
 私はそっとスフィアの体を引き離し、両腕で彼女を抱きかかえて荷台に押し込んだ。そのまま御者台に飛び移ると、すぐさま手綱を引いて馬達をゆっくりと進ませる。私達と荷物を乗せた馬車は、吹き抜ける山風と共に城の中庭へと入っていった。

中庭の脇にあった倉庫の中に馬達を停める。馬と馬車を繋げるハーネスを外して、荷台から牧草の入った大きな箱を引っ張りだす。ここ数日間ずっと走らせていたから相当疲れているだろう。たっぷり休ませてあげないといけない。この娘達だって立派な女の子なのだから。
「ソドム、ゴモラ、お水飲みたい?」
 スフィアは尋ねるように彼女達の背中を撫で回す。いつの間にかこの馬達に名前を付けていたようだ。しかし、あまり縁起の良い名前ではない気もするが……。
「城の裏に川があるらしいから。スフィア、取ってこれる?」
「うんっ!」
 元気のいい声で返事をするとスフィアは両手にバケツを抱えて倉庫を飛び出していってしまった。あんまり遠く行って迷子にならないと良いけど。
「うーん、あんた達が逃げ出さないように馬小屋を別に建てようかな?」
 私の思案を横目に、牧草をたらふく平らげた彼女達はその場で足を折りたたんでスヤスヤと眠り始めてしまった。こんな呑気な娘達なら脱走なんてしないだろう、多分。
倉庫を出て中庭を眺める。無造作に生えた雑草が一面を塗りつぶしていて、今さっき通ってきたその上に轍が曲線を引いている。向こう側の外壁の側には大きな一本の木が立っていて、草葉は半分ばかり二階のテラスに侵入している。あとは、特に目立ったものはない。強いて言えば私の後ろにあるこの倉庫と城本体以外には建物は無いと言うことだけだ。
「……ん、あれっ?」
 ふと違和感を覚える。この倉庫に入った時もそう思ったがここには馬小屋がない。こんな人里離れた森の奥の土地なのに、移動用の手段である馬を管理する小屋がないのだ。それだけじゃない。馬小屋が無いということは逆に言えば長期間街に行かなくても良いということ。つまりここには何かしらの自給自足のための施設があるはず。だがそれすら存在しないのだ。つまりここは誰かが長期間住めるように作られた場所ではないか、或いはもっと別の目的で作られたものか。……まぁ今の私達にはあまり関係ないことだが。
「――にしてもスフィア遅いなぁ。みちくさ食ってんじゃないだろうなぁ……」
 水を取りに行ってからもう幾分か経つが、全く戻ってくる気配を見せない。契約書では確かに川が近くにあると書かれていたのだが。迎えに行ったほうがいいだろうか。
「もう……、今度から離れないようにしないと」
 あの子が一人でやれるのを期待していたのだが、やはりまだ十歳だ。体は成長してきていても心はまだまだ幼い。私も身に覚えがある。
私は着ていたコートを倉庫の中に脱ぎ捨てて、動きやすい一枚着になってから大門へと走りだした。夏の終わりのアルプスの風は、やけに肌寒かった。

外壁に沿って城の裏手に回る。木々をすり抜けてまっすぐに進んでいくと割とすぐに川は見つかった。純粋で透明な水が上流の方から宝石のように輝いて滑り落ちてくる。そっと指を入れるとその冷たさがすーっと腕に伝わってくる。川底の石一つ一つがくっきりとしていて、川そのものがとても綺麗で美しいということがわかる。まるで水の化身でも棲みついているかのように。
「ってそんなことしてる場合じゃないや! スフィアー!? どこにいるのー!」
 大声で彼女の名前を呼ぶ。が、返事は帰ってこない。まさか言ってる側からウンディーネにでも攫われたのだろうか? 昔から水辺には淫魔が多いと聞くが……。
「あぁんもう、どうしようどうしよう……」
 必死に彼女を探す方法を考えるも中々いい案が浮かんでこない。こんなことならマモンの奴の土地なんて買わないで大人しくイギリスのスフィアの家で暮らしておくんだった。あの銭ゲバ悪魔め、とんだ物件を掴ませやがって。
「メフィ公! 出てこいメフィ公!」
 大声でもう一人の私の名前を叫ぶ。こうなったらなりふり構ってはいられない。悪魔の力なんてもう使う気なんかなかったが、この際関係無い。フルで使ってスフィアを回収した後、馬小屋でも鶏小屋でも作ってしまおう。
――突然、目の前から光が消え、もう一人の私が現れる。鏡に映る自分、メフィストフェレス。
「だから言ったじゃん。あの子から目を離しちゃいけないって」
 メフィストはからかうように苦笑しながらこっちを見つめてくる。いつまで経っても憎たらしい奴だ。これが私自身なんだからもっとイライラする。
「いいからとっととあの子を探しだして!」
「せっかちだなぁ久しぶりの対面だって言うのに。まぁいいよ。使えば使うほど君と僕がひとつになっていくってわけだからね」
 彼女が両手をパンパンと叩くと、またすぐに目の前に光が広がっていく。もう慣れてしまったが、目の前の自分が崩れていく風景は少しショックが大きい。
目の前の水面に映る私の顔を見て、ハッと意識を取り戻す。まだ頭が痛い。昔の感覚が戻ってきたようだ。
「ほらほらファウストちゃん。しっかりして、スフィアは向こうだよー」
 脳内にカンカンと響き渡る悪魔の声。この他人を小馬鹿にするような態度は彼女の、私自身の性格なのだが、やはりイラつく。
額に手を当ててスフィアの感覚を探る。ここから少し下った下流の方に彼女のシグナルを感じる。川の向かい側だ。どうやって渡ったのだろうか?
「服が濡れちゃうなぁ……よし」
 両手を水面に触れさせてそっと念じる。――直後、氷の橋がその場に構築される。今は夏だが流石にすぐには溶けないだろう。というか溶けてもらっては困る。
「ん、そこから動かないでよね、スフィア」
 氷の橋を渡ると私はそのままスフィアの居場所を探りながら森の奥へと突き進んでいった。

 ※一回目追加分

森林を突き抜けた先には開けた広場があった。一面に夏の花々が咲き乱れ、黄色と緑の絨毯を作り出している。
少女を探すのには苦労しなかった。なぜなら彼女は花畑の中心にぽつんと立ちすくんでいたからだ。眼前の花には目もくれず、ただぼーっと空を見上げていた。何かを見つめるような目で。
「――スフィア」
 後ろからそっと声をかける。が少女は振り向きもせず、ただ呆然と空を仰いでいた。私の声に気が付かなかったのだろうか。彼女の肩にぽんっと手を乗せて反応を見る。
「わっ、あれっ?」はっと気がついたかのように飛び上がり、こちらに気がつくスフィア。心までどこかへ飛んでいっていたようだ。
「あれじゃないでしょ。水汲みサボってどうしてこんなところにいるのさ」
 強い口調でそう彼女に問いかける。恥ずかしいのだろうか、少女は顔をうつむかせて口をつぐんでしまった。別に怒る気はなかったのだが、少しきつく当たりすぎただろうか。
「……もう、どうやってあの川を渡ったの?」
 頭を撫で回しながら彼女にそう尋ねる。よく見ると彼女は全く濡れていない。髪はもちろんだが、スカートどころか靴下すら濡れているようには見えない。近くに橋でもあったのだろうか? そう考えていた矢先、スフィアがぐっと顔を上げてこちらを見つめなおしてきた。
「お姉ちゃんがね、抱っこして連れてってくれたの」
 ――彼女は小さな口でそう言い放った。私の思考が一瞬だけ停止する。まさか、こんなところでお姉ちゃんの名前を聞けるとは思っていなかった。
「お姉ちゃんって……お姉ちゃん? ……ははっ、スフィアも面白い冗談言うようになったね」
 私は苦笑しながら彼女を持ち上げて、そのまま来た道を引き返す。お姉ちゃんがこんなところにいるはずがない。スフィアは「嘘じゃないよ」と主張していたが、疲れたのかその内黙りこんでしまった。……会えるはずがないのだ。お姉ちゃん本人が言っていたのだから。あの人は別れのキスの時、妹のファウストとしてではなく一人のファウストとして認めてくれた。あの日から私は、あの人の妹ではなくファウストとして生きてきたのだ。
「――まだ会えないよ。メフィスト」
 私はそう、少女に聞こえないような小声で囁いた。仮に、仮にあの人がいたとしても、私はまだ彼女に会う資格がない。きっと、甘えてしまうから。お姉ちゃんの前では、今の自分を保っていられなくなる。またあの人の妹に戻ってしまう。この子のお姉ちゃんでいられなくなるから――。

先ほど凍りつかせ川にまで辿り着く。やはりまだ凍っているようだ。
「そう言えばスフィア、バケツどこに置いたのさ」
 ここに来て急に当初の目的を思い出した。そう言えばこの子は水を汲みに来ていたのだ。二つしか無い大事なバケツを川に流してしまったら大変だ。飲水の確保だけじゃない。これから城の掃除もしなきゃならないのだから。
「えっとね、川の側にね……あったアレアレ!」
 スフィアはそう言って川上の方を指す。視線を動かしていくと川岸に放置された銀色のバケツを発見した。しっかり二つとも揃っている。
「あぁ、あったあった。失くならなくてよかったよ」
 少女を担いだままバケツの場所へと走りだす。川岸に沿って歩き、氷の床を踏み締める。ピシッ、と嫌な音がしたのはバケツの持ち手に手をかけようとしたその時だった。バリンっと足場がひび割れて、スフィア共々水流の中に落っこちてしまった。
「ひゃっ!」
 余りにも冷たいのか、スフィアが可愛らしい悲鳴を上げた。当の私は衣服全体をずぶずぶに濡らしてしながらも、お気に入りのシルクハットだけは流されないように押さえ込んでいた。が、案の定上着から下着までなにまでずぶ濡れだ。おまけに腰も強く打った。
「スフィア! しっかり捕まって!」
 彼女が流されないように片腕で彼女の体を抑え、もう一つの腕で地面を掴み岸辺に這い出る。足に力を入れてみるが、腰が痛くて全く立ちあがれない。
「ファウスト! ファウスト大丈夫!?」
 スフィアが驚いた表情で私の体を揺さぶる。心配してくれているのだろうか。
「ぼ、僕は冷たいのは平気だよ。スフィアこそ大丈夫? 腰打たなかった?」
「うぅん、私があんな所にバケツを置いたから悪いの。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 少女の顔はみるみる内に曇っていき、終いにはポロポロと涙を流して泣き出してしまった。彼女の泣きじゃくる姿を見続けるのは、私にとっても心が辛かった。
「ほら、僕は平気だって!」
 そう言って私は彼女を両腕で抱きしめ、慰めるように背中を擦り回した。自分を責める少女の姿は余りにも小さく、私にはそれが過去の自分のようにも思えて仕方がなかった。お姉ちゃんも、お姉ちゃんもこうだったのだろうか。
「平気、平気だから。だから泣かないでスフィア」
 私は唱えるようにそう彼女を励ましながら、ずっとその手で彼女の背中を擦っていた。それしか、私にはできなかった。

 私達は痛む腰を上げて城の倉庫に戻った。着くなりすぐに濡れた下着を脱ぎ捨てて、馬車の荷台に有った毛布に包まり体を暖め合う。少女はまだしおれたままだった。
「……スフィア、昔の話してあげよっか」
 脇にあったランプに火を灯して彼女の体をまじまじと見つめる。成長途中の小さな胸の膨らみと、その先にあるぷっくりとした鮮やかなピンク色をした幼い乳頭が目に付いた。
「昔って? ファウストの昔の話?」
 少女が不思議そうに首を傾げる。そう言えばこの子に私の身元をしっかり話したことは一度もなかった。出会った時もただお姉ちゃんの知人としか教えてなかったはずだ。彼女からすれば私は突然やってきた謎の女。それなのに彼女は私を受け入れてくれた。もっと早く話しておくべきだった。
「僕ね、君のお姉ちゃん、ソフィアお姉ちゃんのね、妹なんだ。だから君のお姉ちゃん」
 そう、敢えて複雑に、理解できないような形で私は言った。自分で説明ができなかった。できるとは思えなかったし、したくもなかった。私はもうあの人の妹じゃない。だからもし、スフィアが理解できなかったら、完全にあの人と断ち切れたことになる。そう思ったのだ。
「えっ、知ってるよ? ファウストは私のお姉ちゃんでしょ?」
 スフィアは微笑みながら、私の期待を裏切った。裏切ってくれたのだ。私を自分の姉として、そしてあの人の妹として認めてくれた。それが嬉しくてたまらなかった。思わず腕が勝手に彼女を抱擁していた。彼女の温かみを、あの人と同じ温かみをスフィアの小さな肉体に感じた。
「本当だ。ファウストの体って冷たいんだね。でも暖かい」
 少女は私の胸に顔を埋めて、気持ちよさそうに頬を擦り寄せる。彼女の幼い四肢は私の身体に張り付いてちっとも離れようとはしない。彼女の愛くるしい身体は、とても心地が良い。
「……スフィア、寝ちゃったの?」
 気が付くと彼女は私の胸の中で眠っていた。そこまで大きいはずじゃないのだが、こんなので満足してくれるなら、私としても嬉しい。
「んん……そうだねファウスト、僕も眠いや。おやすみ、スフィア……おやすみ、お姉ちゃん」
 本当なら城の部屋で寝たかったが、まだ下見も終わっていない。ランプの火を吹き消すと、私はそのまま目を瞑ってスフィアのの感触を何度も確かめた。いつまでもそこにいる温かみに包まれて私の意識は暗闇に落ちていった。

 ※二回目追加分。

「――可愛いね。あの子」
 目の前にメフィストの幻影がゆらりと現れる。彼女は私の額を指先でツンと押し上げて、クスクスと笑い出す。嫌な夢だ。昔から白昼夢は悪夢が多いと言われるが、まったくもってその通りだ。この女の顔を見る度、胸に嫌悪感が満ち満ちてくる。私とそっくりの、嫌な顔。
「何さ。今頃になって興味が湧いてきたわけ? 君ロリコンだったっけ」
 私は煽り返すように目の前にいるメフィストの眉間に指を突き出す。手応えはないが彼女が顎を上げているところを見るとしっかり触れているらしい。全く、実態があるのかないのかわからないから困ったものだ。
「そう、……じゃない。君、あの契約覚えてる? 忘れてないよね」
 彼女は私の腰に腕を回して、ぐっと顔を近づけて見つめてくる。契約、こいつと最初に出会った時にそんなことを言われた気がする。すっかり忘れてしまっているが、別にそこまで不利な契約ではなかったはずだ。
「契約? あぁ、そんなのもしてたっけ。何が望み?」
 私はそう言って彼女と目を合わせないように顔を逸らす。やはりこの女の、いや自分の顔をマジマジと見つめるのは苦手だ。どうも、心が落ち着かない。
「ほらやっぱり忘れてる。君が一度僕の力を使ったら、僕も君の身体を使わせてもらう。そう言う約束だったはずだけど」
 ――彼女が耳元で囁く。ハッと顔を前に向き直すと、もう既に彼女の姿はない。してやられた。内心腸が煮えくり返りそうだ。
「さっきの一回ってわけね。いいさ、特にすることなんてないんでしょう?」
 自分に言い聞かせるように叫ぶ。メフィストが単純な欲を見せたことなんて一度もないが、彼女は私のことを自分だと言うし、私も彼女のことを私自身だと理解している。それでいてしかも長い付き合いだ。だから、この私とスフィアだけが孤立した状況下では彼女、いや「私」が何をするのか、なんてのは考えるまでもなかった。
「まぁまぁ、後は僕にまかせて、ゆっくり休んでおきなさいってば。お姉さん」
 メフィストが眼前に現れ、そっと私の唇を奪う。甘い香りが鼻の奥をくすぐる。いつかお姉ちゃんとキスした、あの時と同じ香り。私はこの終わらない夢のなかで、再び心の奥底に沈んでいった。

※三回目追加分改訂版

「ファウスト起きてよー」
 少女の声が耳の奥に響く。誰かの腕が私の身体を揺さぶっている。薄っすらと差し込む光が、私の瞼をこじ開ける。瞳に映り込んだのは幼い少女のあどけない表情。 
「――どれくらい寝てた?」
ゆっくりと上半身を起こして目を擦る。いつもの感覚。私の思い通りに関節、筋肉、隅々まで違和感なく動く。さっきのは夢だったのだろうか。……夢? 困ったことに夢の内容が思い出せない。メフィストと、何かを話していたはずだったが。
「ファウストったら、もうお日様沈んじゃうよ?」
 スフィアはそう言いながら私の着替えをどこからともなく引っ張り出す。そう言えば何も着ていなかった。だが、不思議と寒くはない。先ほどからメフィストの感覚が感じられない。どこへ行ってしまったのだろうか。
 手渡された衣服に腕を通しながら、目の前で私を見守る少女を眺める。よく見ると少女の服は綺麗に裏返っていて縫い目がむき出しになっていた。
「ほらほら、逆だよ逆。ちゃんと着るときに見なきゃ」
「え? あっ、いけない」
スフィアは恥ずかしそうに顔を赤らめて裏返った衣服を脱ぎ、めくり直してから再び袖に腕を通した。10歳になってもやっぱりまだまだ子供のようだ。私も昔はよく間違えてお姉ちゃんに指摘された。
「ふふ、可愛いな。スフィアは」
幼い少女の身振り手振りは、とても心が癒される。お姉ちゃんもこんな気持ちだったのだろう。私は代えのコートを羽織ってから、少女を慰めようと肩に手を掛けた。彼女が呆けている内にぐっと寄せると、彼女の項に手を回して――。
「んっ、ぐっ」
 ふっと少女の唇を自分の唇で塞ぐ。小さな口の中に舌を入れ、そっと撫でるように舌先を、少女のまだ未成熟な舌の上に走らせる。少女の口の中に、私を歓迎するかのごとく唾液が溢れ出す。彼女の四肢がピクピクと痙攣しているのがわかる。スフィアは人生初めての甘美を、たった今ここで味わっているのだ。
「……美味しい」
 スフィアの唾液をごくんと飲み込んで身体を引き離す。少女のとろけた表情が背徳的で、私の心を刺激する。そのままうっとりと彼女の顔を見続けていると、その内少女が意識を取り戻した。だがまだ、状況は飲み込めていないようだ。
「ふぁ、ファウスト、いまの何? ただのキスなのに、あんなに気持ちよくて……」
 そう言ってスフィアは自分の胸を抑える。少し、やりすぎただろうか。やはり前触れもなくキスなんてするものじゃなかった。彼女にとっては初めてだったろうし、なにより私も予想していなかった。何故私は突然キスなんて――。
「あれっ?」
 何故私は、たった今ここで少女にキスをしてしまったのだろうか。私は確かに、少女を慰めようと抱きしめて、優しく撫で回そうとしたはずだったのだが。
「ねぇっ! 早くお城見に行こうよ!」
 突如、スフィアが元気のいい声でそう尋ねながら、私の胸に飛び込んできた。抱きしめる力がいつもよりずっと強い。さっきのが効き過ぎたのだろうか。この子がもっと成長してから教えてあげようと思ったのだが。
「あ、あぁうん、そうだね。お部屋、見たいもんね」
 私は適当に理由を繕いながら首を縦に振る。まだ違和感は残るが、してしまったのならしょうがない。それにそろそろ日も沈む。早いところ仕事は済まさないといけない。
 濡れているしどうせなら、と新品のブーツを履いて荷台を降りる。ソドムとゴモラの二匹はまだグースカと寝ていた。寄り添って眠っていて、妙に暖かそうだ。でもそのままでは風邪になってしまうだろう。荷台から馬用の毛布を引き摺り下ろし、彼女達の上にそっと乗せてあげる。牧草も箱1つ分置いておけば起きた時に勝手に食べるだろう。
「糞尿の始末どうしようっかなぁ。近くに畑はないだろうし……あれ、スフィア?」
 少女がいないことに気がついた。もう城に行ってしまったのだろうか。一通り持ち物を整理してカバンに詰めてから外に出る。
「って、まぶっ!」
 咄嗟に腕で光を遮る。夕陽の赤い輝きが、私の目には痛いほどに突き刺さった。たった今まで暗いところにいたからだろうか。それにしては、いつもよりもずっと鋭い光のようにも思えたが。
「……よし、慣れてきた」
「ファウスト! こっちこっち!」
 スフィアが私を呼んでいる。まだ違和感は残るが、十分見回せる程度には回復したので、彼女の姿を探す。なんてことのない、広場の中心でこちらに手を振っていた。どうもあの子は真ん中が好きらしい。少し苦笑しながら彼女の元へと走る。
「ほら、見てみて!」
 スフィアがはしゃぎながら手で指し示す。振り向いて思わずため息が出た。夕陽の煌めきが山脈を紅く染め上げて森林を燃やし、巨大なレッドカーペットを創り出していた。それはとても綺麗で、情熱的で、切なくて、私の心に寂しさが芽生えるような、そんな感じがした。
「とっても綺麗だよね! 私、ここ気に入った! ずっと居たいよ。いいでしょファウスト」
 スフィアが懇願するように私に縋りつく。気の早い子だ。そこが、抱き締めたくなるほどに可愛い。
「うーん、まだお城のほう見てないからねー。でもスフィアなら平気だね。強い子だもん」
 しゃがんでスフィアの顔を覗き込む。褒めるように頭を撫でながら、そっと少女の唇を奪う。少女もまんざらでもないようで、私の唾液を求めて舌を優しく受け入れてくれる。少女の心臓の鼓動が心地良く響く。
「……だから、後で続きしてあげるね。可愛い妹ちゃん」
 私がそう言うと、少女が満足した表情で頷く。私はそのまま彼女の小さな左手を握って、引率するように城の入り口へと歩き出す。――さっきのキスは、誰の意思だったのだろうか。いや、考える意味もないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿