星空のステラ 第一章【ドラゴン大作戦】

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 ――夢を見ていた。遠い日の夢。

 急に目が覚めた。ゆっくりと身体を起こして、顔についた涎を手で拭き取る。毛布を身体に巻きながら、足を横に出してベッドに腰掛ける。目の前にはいつものレンガ造りの白い壁が見える。そのまま視線をぐるぐると移動させていく。古い木製の机と背もたれのない椅子に、やや小さなクローゼット、使いもしない簡素な鏡台、そして唯一高価そうな振り子時計。針は八時十六分を指していた。
「ふぁ、起こしに来てくれたっていいのに」
 あくびをしながらネグリジェの肩紐にすっと手をかける。桃色の薄い衣をしゅるしゅると脱ぎ捨て、姿見の前に立って自分の裸体をマジマジと見つめてみる。へその周辺を覆うように膨らんだ贅肉が滑稽に見えて仕方がない。クローゼットの中から取り出したシュミーズ等の適当な下着に着替える。なんとなく鏡台の椅子に座ってみるものの、よくよく考えるとそもそも化粧品を持っていない。仕方なく寝ぐせの付いた髪を、ヘアブラシで適当に梳かす。金色の跳ねた癖っ毛がまっすぐに正されていく。ベッドの横に置いてあったブーツに脚を突っ込むと、眠い眼を擦りながら部屋を後にした。
 階段を降りて食堂の前を通る。既に調理を終えた後のようで、鶏肉の焼ける匂いがそのまま残されていた。思わず唾液が口の中に溢れ出してくる。朝の空腹が私を急がせるように音を鳴らす。急ぎ足で応接間の前まで行くと、そのままノックせずに扉を開けた。
 中で待っていたのは紫色のテールコートを着たショートカットの女性。テーブルには私と彼女の分の朝食が用意されていた。
「おはよう、ステラ。遅かったね。僕ずっと待ってたんだけど」
 彼女は挨拶と共にそう不満を漏らして私の方を向いた。ステラ、私の名前だ。
「おはよう、フェリス。ごめんなさい。先に食べていてもよかったのに」
 彼女、メフィストフェレスの質問にそう返答する。彼女は私の保護者みたいなものだ。私が唯一心を許せるたった一人の人間、と言うべきか、まぁともかく私の大事な家族だ。
 テーブルを挟んで向かい側のイスに座る。一般的なフランスパンにガーリックで焼いたチキンソテー、レタスのサラダとトマトのミネストローネ。どれも彼女が作ったものだ。
 適当に挨拶を交わして、料理に手を付ける。スプーンで野菜を掬いスープごと口に含む。トマトの甘い酸味が舌の上に広がっていく。カリカリに焼かれたチキンソテーの切れ端を口に放り込む。噛み締めるとしっとりとした鶏肉の肉汁がぶわっと口の中に吹き出し、私の舌を満足させる。
「ふぅ、やっぱフェリスの料理は美味しいわね」
 そう褒めるように言いながら彼女の方に視線を向かわせる。よほど腹を空かせていたのか、もう既に彼女は料理を全て平らげていて、食後のワインをグラスに注いでいた。こんな朝から飲むものじゃないと思うが、個人的にはビールよりかは幾分かまともだとは思う。まぁ、あれば飲むが。
「あ、そうだ。これ、麓のポストに届いてたよ」
 そう言ってから彼女は少量のワインを口に含んで、一枚の封筒を手渡してきた。名義は封筒には書かれていない。切手に描かれたヴィクトリア陛下の横顔から推測するに、イギリスから送られてきた物だ。誰が送ってきたのかはだいたい見当がついている。屋敷に届いた銀行やら保険やらの契約関連の書類は、国境を越えてこのスイスアルプスに再郵送されてくる。
「国際郵便って、わざわざ律儀ねあの人も。代理人なんだからに済ませてくれればいいのに」
 今更帰る気もしない。今だってフェリスとならこうして話していられるが、他人だとどうなるかはわからない。それに、私はここが好きだ。人間社会から隔離されたこのスイスアルプスの自然が、私にはとても素晴らしく見えた。もう十年もここで暮らしているし、私にはフェリスがいる。それだけで、今は十分だ。

 第一章【ドラゴン大作戦】古代狂血龍イニシエート、登場。

 小川の水面に顔を浸す。雪解け水が流れて出来たこの川は、朝の眠気を吹き飛ばすほどに冷たく澄んでいる。手で顔を擦って汚れを洗い落とし、そのまま髪洗いに移行する。ひと通り終わってから持ってきた食器をブラシで洗い出す。
 ユングフラウに近いこの森は自然と生命にあふれていて、いるだけで生気が養われていく。近くにこれといった町もないので流行りの登山客も寄り付かず、今もなおこうして自然が荒らされずにいる。
「食器洗い終わり、っと」
 洗い終わった皿の水を布巾で拭き取り、籠の中に積み重ねる。一年ほど前にイギリスの登山家がマッターホルンの登頂に成功した、なんて話をフェリスから聞いたが、あれは本当だろうか。こうやって暮らしているとどうも世間に疎くなってしまう。三年ほど前に観光したツェルマットの風景はとても素晴らしいものだった。人の多いところはフェリスにくっついて歩かないと、不安に駆られてしゃべるのもままならなかったが。
 食器の入った籠を持って、木立の間をすり抜けて一本の小道に出る。整備されていない泥濘んだ土の上を進んでいくと小さな古城の前までたどり着いた。無差別に蔦が生えた城壁に、朽ち果てて撤去された城門が哀愁を漂わせている。中庭に入るとフェリスが洗ったばかりの洗濯物を、木に括りつけたロープに吊り下げていた。
「こんなに天気がよいと乾くのも早そうね。で、なんで私の下着がないのかしら」
「僕の部屋で干すからでしょ。何その顔、僕変なこと言った?」
 そう言って彼女は洗濯カゴに入っていた私のネグリジェを、自身の頬に擦りつけた。咄嗟に彼女の手からそれを奪い取る。
「その趣味やめたほうがいいわ。と言うか私のためにやめて」
「ちぇっ」彼女は残念そうに舌打ちをする。まったく、油断も隙もない。
 全ての洗濯物を吊るし終わると、そのまま彼女と一緒に城の中に入っていく。紫色のシルクハットに燕尾服に似たコートと言ったフェリスの衣装はあまり女性らしい格好とは言えないが、それでも時折垣間見える少女っぽさが愛らしさを醸し出している。これでもうちょっとあの性的嗜好をなんとしてくれれば私も安心して夜を過ごせるのだが。
「そう言えばステラ、結局どうするの? 帰る?」
「どうする、って帰るわけないでしょう」
「ふーん、やっぱりまだ怖い。ふふ、いいよ。ボクは君の行きたいところについていくよ。だいたい都市部はただでさえ人が多いし、何より、不衛生だよ」
「うーん、確かに汚いってのもあるんだけれど、ねぇ」
「あるけれど、何さ?」
「……コルセット付けたくないのよね」


 二階のベランダにあるテーブルベンチに座って、気だるく空を見上げる。雲ひとつない晴天が広がっていた。こういう日はゆっくり紅茶でも一服するに限る。陶器製のポットに入った紅茶をカップに流しこみ、砂糖の欠片を一つだけ入れて銀のスプーンでかき混ぜ、火傷しないように少し冷ましてから淵に口を付ける。柑橘系の香りが鼻いっぱいに広がった。
 幾分か経ってフェリスがやってきた。私の隣に座ると彼女は、コーヒー豆の入った漏斗と、持ち手のついた水の入ったガラスの器具をテーブルの上に設置した。いったい何をするつもりだろうか。
「なにそれ、フラスコなんか持ってどうするのよ」
「サイフォンだよ。見てて」
 そう言って彼女はパチンと右手の指を鳴らし、人差し指と中指の先から炎を出してフラスコの底部を温めだす。その内、底部に溜まっていた水が沸騰して来た。すかさず火を外し、片手で漏斗をしっかりとはめ込む。彼女がもう一度加熱すると、下に溜まっていたお湯が上のコーヒー豆の入った漏斗へと登り始めた。続くように左手の撹拌棒でゆっくりとかき回すと、コーヒーの濃い香りが周辺に漂い始める。
「へぇー、凄いわね」
「ドリップのほうが美味しいんだけどね。我輩はこっちのが面白くて気に入ってる」
 そう言ってフェリスは指先の炎を息でふっと吹き消す。加熱をやめて暫くしてから、上部の漏斗に溜まっていたコーヒーが下部のフラスコへと降り始める。彼女は降りきったのを確認してから、漏斗を外してコーヒーをカップに注いだ。
「んっ、美味しい。君と一緒に飲むコーヒーはとっても美味しい」
 彼女はそう言って急に私の腰に手を回し、こっちの顔を伺いながらぐっと擦り寄って来た。
「ちょ、ちょっとなによ。暑苦しいわ」
 フェリスはあどけない少女のような、でも何故か切なそうな、そんな表情で私を見ていた。コーヒーをテーブルの上に置くと、彼女は身を乗り出すようにして私の身体にそっと絡みついてくる。何を企んでいるのだろうか。
「いや、ちょっとね、久しぶりにステラの抱き心地を確かめてみようかと」
 彼女の薄暗い瞳が光を受けて紅く煌めいている。ここで無理に突っぱねると、テーブルの上の飲料をこぼしかねないので彼女が飽きるのを待つしかない。フェリスにうまい具合にはめられたわけなのだが、別に満更でもないのでこの際彼女を受け入れてしまおう。
 彼女の冷え切った背中に手を回して力いっぱい抱き返す。喜びの歓声をあげるが如くフェリスの身体はしきりに痙攣し、その口から漏れる吐息が私の胸元を熱く蒸らす。表面は澄んだ水のように冷たいのに、彼女の中の熱気がじりじりと伝わってくる。
「こうやってなんでもない日に抱き合うの、何年ぶりかしらね」
 出会った頃は暇さえあれば毎日のように、気が済むまで互いの温度を感じ合っていた。そうじゃないと、怖かった。相手がどういう人間かがわからなかったからだ。突然訪ねて来た謎の女性にそう簡単に心を許せるはずがなかった。
 相互理解は意外と早くに完了した。一ヶ月もあれば彼女の性格や体質の他、私に対しての妙な愛情が理解できた。それでもやめられなかったのは、彼女の内面がお姉ちゃんに似ていたからだ。お姉ちゃんの暖かさが、彼女の冷たい身体の奥に確認できた。まぁ、とはいえ実際は、彼女の方から強請って来ることが多かったからなのだが。
「君は子供の頃からずーっと変わってないね。柔らかくて、ずっと抱いていたい」
「そうね、でも少なくとも昔よりは大きくなったでしょ?」
「そうだね。確かに……太った」
 フェリスはくすっと笑って私の顔を覗きこんでくる。私は頬をふくらませて視線を逸らして彼女にちょっとした意地悪をする。これが私達の他愛もない毎日であり、幸せなひとときでもある。できるものなら、いつまでもこうやって暮らしていたい。仲の良い姉妹のように、永遠に、三人で――
「ねぇステラ、お姉ちゃんに会いたい?」
 思い掛けない問いがフェリスの口から飛び出る。あまりにも突然過ぎて、すぐには回答が思い浮かばない。なんと答えればいいのかがわからない。私があの人の顔を思い浮かべたのを見透かされていたのかもしれない。
「なんで、その話をするのよ?」
「会いたそうな顔をしてたから」
 やはり私の考えていることは彼女に見透かされているようだ。それもそうだ。私達が抱き合ったのはそもそも心を通じ合わせるためだ。私が彼女の温もりをこの手で感じたように、彼女も私の本心を感じ取っている。
「会いたいわよ。もし会えるならずっとほったらかしにしてたことを後悔させてやるわ。私の前から消えたことも、私を寂しい気持ちにさせたことも、お料理のやり方をを教えなかったことも、全部ぜーんぶ謝らせてやる。でも――」
「どうせ会えない?」
 はっとして思わず口を噤む。多分、何も言わなくても彼女は私の言いたいことをわかってくれる。しばしの間静寂だけが続いていた。もう紅茶もコーヒーも冷めてしまっているだろう。
「会えるよ」
 そう囁くとフェリスは、私の額にそっと手を伸ばし、優しく頭を撫で回し始めた。心地の良い快感が直接脳内に浸透していく。身体中の力がふっと抜けていく。
「ずっとあの人を追って、やっとたどり着いたのが君なんだ。僕にとっても、君は大事な人なんだ。だから、君が会えるって信じていてくれないと、私困っちゃうな」
 紅い瞳が涙で潤んでいるのがこの目で確かめられた。それはまるでフェリスだけではなくお姉ちゃんまで泣いているかのようで、私の心が抉られるように痛んだ。
「……ごめんなさい。いつも自分のことばかり考えて、貴女のことちっとも考えてなかった。貴女がいなかったら私、今頃こんな格好のいいコートなんか着てないし、こんな素晴らしい大自然の中で暮らすなんてこともなかったはずなのに。料理だって作れないし、資産だって全部貴女のものなのに、それなのに、私ったら、私ったら」
 涙腺の奥から涙が溢れだしてくる。頬を伝って大粒の雫が顎から流れ落ちていく。ふいにフェリスの手が私の頭をぐっと抱き寄せた。彼女の心臓の音が胸越しに、私の心にどくどくと響いてくる。
「泣いていいよ。僕も一緒に泣いてあげる。だから、僕の傍にいてね。料理が作れなくてもいい。資金繰りなんかしなくていい。君がいてくれるだけで、僕は幸せだから」
 彼女の温かい涙が私の顔にぽたぽたと落ちてくる。私の涙と頬の上で混ざり合い、体積を増やして下へ下へと流れ落ちる。私達は気が済むまでその場でただ泣き尽くしていた。


 ただ、逃げるように闇の奥へと走り続ける。振り返りはしない。背中を刺すような気配がすぐ後ろまで迫っていたのだ。獲物を追う獣のような息遣い。大地を踏みしめる足音。鉛の爪を突き刺しながら一歩一歩近づいてくるそれ。奴が、奴が傍にいる。
「貴女は終焉。死を呼ぶ破滅」
 くぐもった女性の声が、私の脳内に響く。いつも聞いているのだからわかる。その声は確かに、私の声だ。
 出口が欲しかった。この先の見えない迷路を終わらせる出口が。ずっと遠くに見えた一筋の光。それだけを追ってただ走り続けた。それだけが、私の希望だった。
 そして、それはすぐに崩れ去る。漠然とした巨大な壁が私の前に立ちはだかった。行き止まりか、或いは最初から出口なんて存在しなかったのかもしれない。虚無感と喪失感が私の心に蔓延る。振り返っても退路はない。龍のような黒い影が今の私をあざ笑うかのように見つめていた。
「どうして逃げるの? いいじゃない。自分に正直になれば。憎いんでしょう? 何もかも」
 反射的に身体が跳ね上がる。木製のベッドがギシギシと悲鳴を上げる。深呼吸しながら辺りを見回す。ここはどうやらフェリスの部屋のようだ。壁際に無造作に重ね置きされた本の山と、小綺麗に整った書き物机が彼女らしさを伺わせる。
 コートが脱がされている。少し肌寒い。掛けられていた毛布を身体にくるむとそのまま隅で蹲る。ここ最近、いつもあの夢をみる。具体的な意味や理由はわからないが、あれを見る度に恐怖が私を包み込む。何故だか、自分の存在を否定されるような、そんな感覚に陥る。
 どこからともなく流れてきたカカオの独特な香りが私の鼻をくすぐる。フェリスが愛らしい口笛を吹きながら部屋の中に入ってくる。彼女は私の顔を見てふっと微笑むと、チョコレートドリンクの入ったカップを差し出してきた。私は程よく冷めたそれを受け取るとすぐに口に含んで、その温かみと甘みを何度も味わった。
「泣き尽くしてホッとした? あの後君を運ぶのは大変だったんだよ? 重いし」
 彼女はそう皮肉るように苦笑しながら、私の背中を摩り始めた。彼女の柔らかい手とミルクが心を落ち着かせてくれた。最後の一口分だけ入ったカップを彼女に渡すと、身体を倒して彼女の身体にもたれかかった。
「ありがとう。美味しかったわ」
「どういたしまして。疲れてるようだし、もう少し眠った方がいいかもね」
 フェリスは私を気遣うかのようにそう言ってから、わざわざ私が口を付けた部分に唇を押し当てて、チョコの残りを飲み始める。いつもならすぐに辞めるように注意するのだが、今日は彼女への感謝の思いがいっぱいで怒る気にはなれなかった。今日のところだけは黙認しておこう。彼女の私を愛してくれていることへの細やかなお返しだ。
「ねぇ、何か唄歌ってよ。安心して眠れるのがいい」
 私がそう尋ねるとフェリスは不思議そうな、でも妙に嬉しそうな顔をしてこっちを見直してきた。突然過ぎただろうか。それとも成人にもなって子守唄を強請るのはいささか子供過ぎただろうか。
「ふふ、そうだね。じゃあ可愛いステラのために、とっておきの子守唄を歌ってあげよう」
 そう言って彼女は普段出さない甘い声色で唄を歌い始めた。ベッドの上で横になって彼女の唄に耳を傾ける。

 貴方とここにいることがとても心地良いの。
 貴方の傍にいることがとても楽しいの。
 貴方が笑ってくれることがとても嬉しいの。
 だって私は貴方が好きだから。
 貴方が喜んでくれることが、私の喜びだから。
 貴方が幸せでいられることが、私の幸せだから。
 私は貴方が好きだから、貴方を好きでいたいから。

 どこかで聞いたことのあるメロディー。そう、これはお姉ちゃんがいつも歌っていてくれた子守唄。歌詞は違うけど、でも、とっても安心できる。あの人の声が脳裏に蘇ってくる。懐かしい、幼い日の思い出。あの人の暖かい胸の中が私を眠りに誘ってくれた。彼女を取り巻く若い青葉の香りが今でも克明に思い出せる。瞼の裏に映るあの人の影が、今もなお私を胸に抱いている。
「本当に可愛い寝顔だ。おやすみステラ。いい夢を」
 そう言ってフェリスは、いや、お姉ちゃんは、私の頭を擦るように撫で回してくれた。ふっと彼女の優しさと暖かみが私の体と心を包み込む。私は彼女の形をした睡魔に全てを委ねて、柔らかな眠りの深奥へと沈んでいった。


 鋭く尖った夕陽の刃が、窓の外から私目掛けて飛んでくる。橙色に煌めく刃物が私の瞳を裂いて、最後の栄光を見せつける。慣れない眼をぱちぱちと瞬かせてから、窓の外に身を乗り出して、遠い西の山々の向こう側に沈む太陽を見納める。彼方で薄らぐ夕焼けを見ると妙に物悲しくなる。夜が来るのを怖がっているのか太陽と別れるのを寂しがっているのか。或いは、重ねているのかもしれない。あの人と、太陽を。
 色々と考えることはあったが、どこからともなく漂ってきた夕飯の匂いに掻き消されてしまう。これは、じゃがいものクリームスープだろうか。使われているのはヤギのミルクだろう。腹の奥からぐぅっと音が鳴り響いた。
「……お腹減った。深く考えても仕方ないわね」
 細かいことを考える前に、まずは食事が一番だ。フェリスは今日は機嫌がいいだろうし、いつもより美味しい料理を用意してくれていることだろう。私は今日の夕飯に多大な期待を抱きつつ、部屋の隅に置いてあった上着を脇に抱えて立ち上がった。
 不意に、上着のポケットから何かがすっと落ちる。朝食の時にフェリスから渡されたあの封筒だ。よく見ると切手に消印が押されていない。それもそのはず、これは消印を消して再利用する不正が横行したため、今は使用できなくなったはずの黒色インクの切手、通称ペニーブラックだ。つまるところこれは一度屋敷に届いた後、彼女の手によって再郵送された手紙ではない。この切手は彼女が装飾として形式的に貼った物、つまり屋敷にいる彼女からの手紙だ。
 すぐさま封を破り中身を改める。丁寧に書かれていて妙に気品のある文字の上に眼を滑らせながら、最後の一文をしっかりと瞳に映す。――貴方の愛しの、真紅の女神より。そこには確かにそう書かれていた。屋敷を出て以来の十年、一度も会ってない。ふっと口元が緩み、微笑がこぼれ出てしまう。随分と懐かしい人から手紙が来たものだ。文頭に視線を戻してしっかりと読み直す。
 十年が経ちました。そちらの暮らしはどうですか。こちらはひどいもので数年ぶりに本館に行ってきたのですが、流石に一人であのサイズの屋敷は掃除し切れないもので、庭の手入れだけで時間を潰してしまい、次の日にはとっとと諦めてしまいました。それはそうと、最近の悩みは成人した貴女がどれだけ美しく成長したかが気になってしょうがないということなのです。会いに行きたいとは思っているのですが、あの土地の管理人という役割を投げ出すのもどうかと思い、こうして貴女に直接手紙を送った次第です。そろそろ屋敷に戻ってきて私に顔を見せてください。そうしてもらえると、私としてもあの土地の管理が楽でとても助かります。
「本音が出てるわよ。まぁ、ふふ、いいわ」
 読み終わった手紙を折りたたんで上着のポケットにしまい込む。確かに人は怖い。でも、一年ぐらいなら帰っても悪くないかもしれない。それに、成長した姿が見たいという言葉が私の心のなかで少し引っかかった。ここで怖気づいていたなら私は成長していないことになる。彼女が私に成長を期待しているなら、その期待を裏切るわけにはいかない。私は壁にかけてあったランタンに火をともし、暗い廊下に赤い光を振りまきながら食堂へ向かった。


 壁際の燭台の炎は橙色の光を放って、古ぼけた石造りの床を照らしている。石材の建物は強度があって良い。少なくとも木造よりは、火事にはならない。
「君のその胸は、食べて寝てを繰り返すからかぁ」
 フェリスはそう言いながら頬杖と溜息をつく。彼女の視線は私のひらけた胸元に集中していた。谷間にそって視線を動かしているようで、なんだかくすぐったく感じられる。
「それって褒め言葉なのかしら?」
 彼女の皮肉に少しムスッとしながら、大皿に入ったクリームシチューを銀のスプーンでグルグルとかき混ぜる。羊乳の鼻の奥を擦るような濃い香りが私の食欲を駆り立てる。
「まぁそれはお姉ちゃん譲りだもんね。いいなー、羨ましいなー」
「でもフェリスも結構おっきいほうだけど。胸」
 服の上からだが、何度も抱き合ったので、フェリスの肉付きはしっかり覚えている。おっぱいはコートの上から十分膨らんで見える。それより特筆すべきなのは彼女の筋肉だ。一見華奢に見える細い腕は、私を部屋まで運べる程度には筋力がある。私がもう少し小さかった頃はよく背負ってもらっていた。彼女の脚は見た目だけはスラっとしていて綺麗だが、中には馬みたいな洗練された筋肉が詰まっている。正直あの脚力でのキックだけはもらいたくない。
「やっぱりはちきれんばかりのおっぱいがいいよー。そのほうがステラもいいでしょ?」
「そりゃいいけど、多分鍛え過ぎなんじゃない? 胸の脂肪から燃えてるのよ」
「我輩は鍛えてないよ! キミがすぐ疲れたとか言っておんぶ強請るせいじゃないか!」
「あー、私のせいだったの……」
 この山中で少女一人背負って歩き回れば、確かに筋力は付くだろう。私もフェリスを背負って暮らせば痩せられるだろうか? そう言いかけたがどう考えても自分の言葉に責任がとれないのでやめた。彼女なら喜んでやりかねない。
「よく食べて運動するから筋力が付くのよ! 食べなきゃいいのよ! きっとそうよ!」
「キミはよく食べるから太るんでしょ」
 フェリスの指摘を受けて、シチューを注ぎ足そうとしていた右手が止まった。そのまま左手で持っている取り皿に視線を落とす。これで何杯目だっただろうか。



 宵惑いの木々はすっかり寝入り、森には静寂だけが広がっていた。山岳の冷涼な風が木立の隙間をすり抜けて麓へと走り去っていく。獣は既に寝付いてしまった。樹洞の中の鳥とすれ違うことはない。彼らの行く手を塞ぐような壁はこの自然には存在しない。昨日までは、そのはずだった――
「新生」
 立ち並ぶ針葉樹の合間を塗りつぶすように現れた巨影。それは明らかに今この場所に存在する自然とは何ら関係を持たず、或いは外の世界であろうと存在することはないであろう姿をしていた。蜥蜴のような鱗の包まれた肉体を持ち、蛇のような黄金の瞳で闇を見つめ、鰐のような牙を剥き出しにする。そう、それは、龍。
「我は破滅。破滅の、新生。物語の――」
 唸声を上げ、大地を強く踏みつける。怪獣は跳躍する。深紅に塗れた爪が月夜を切り裂いた。
 古代狂血龍イニシエート、登場。



 私室の壁にかけられた古いキャンドルランタンの中の小さな灯火が、部屋中一面の物体をオレンジ色に染め上げている。一日中着続けていた服と下着を脱ぎ捨てる。鏡台の姿見に映る肉体は、今朝と変わらずだらしない肉付きをしていた。クローゼットを開けて着替えのネグリジェを取り出す。なんだかパッとしないデザインの物しかない。そう言えばお気に入りの物は今朝フェリスが頬擦りしていた。せっかくなので今日は裸のまま寝ることにする。山岳の夜は夏でも冷え込むが、十年も暮らしていると慣れてしまう。
「十年、そうね、十年よね」
 そうつぶやきながらベッドの上に寝そべる。天井の染みは十年前に比べてどれくらい大きくなっただろうか。このベッドも元からこの部屋にあったものだが、昔に比べて軋む音が大きくなってきた気がする。無論、私の身体が成長したことも関係しているのであろうが。
 この十年で、いったい何が変わったと言うのか。身体は確かに成長していて、今ではフェリスの身長を超えてしまった。勉強だって彼女が教えてくれた。でも、私の毎日は何も変わってない。朝になったらここで起きて、フェリスと一緒に過ごして、夜になったらここで眠って。それを十年間ただひたすらに繰り返してきた。そしてこれからも――
「なに神妙な顔しちゃって」
 唐突な彼女の声に驚いて顔を横に振り向かせる。眼前にフェリスの愛らしい顔が現れる。お互いの鼻先がツンツンとぶつかってむず痒い。
「わっ、ちょっ、顔近い」
 引き離そうとして彼女の胸に手を押し付ける。フェリスの柔肌が手先の感覚を包み込んだ。冷たくて脂肪も少ないけどそれは確かに柔らかくて、フェリスの心音を確かに伝えていた。それは私の鼓動と同じで――
「ってどうして何も着てないのよ!」
「ぼかぁいつも裸で寝てるけど。それより君こそ今日は裸なの?」
「う、うん」
「寒いからよしたほうがいいよ。冷え性は辛いよー」
「貴方は大丈夫なの?」
「我輩はそう言う属性の悪魔だもの」
 フェリスはそう言ってにぃっと微笑んだ。その笑顔は悪魔と言うよりは純粋無垢な天使みたいで、どこか説得力がない。
「大変ねぇ。悪魔ってのも」
「それより何考えてたのさ」
「何って、そうね、今後のことよ」
 今後のことだっただろうか。いや、きっとそうなのだろう。
「変わりたいの?」
 見透かされている。彼女は私の腕にその薄い胸をぎゅっと押し当ててきた。彼女の心音が私の心臓の鼓動と同期する。この心臓の鼓動を通して彼女に私の考えていることが伝わっているのかもしれない。
「そうね、変わりたい」
「――じゃあ、帰るの?」
 不意の強い口調に思わず顔を上げる。フェリスの口元から皺が消え去っていた。いつものどこか気楽な彼女の面影はない。どうしてそんな怖い顔をするのか。
「僕は、君が傷つくのは見たくないよ。でも、これって僕の甘えなのかな」
 彼女のほっそりとした腕が私の頭をそっと包み込む。フェリスの白く柔い胸は、果物のような優しく甘い香りがした。できうるならずっとこの冷たい空間の中で春が来るまで眠り続けたい。そんな気分になってしようがない。安心する余りすべてを彼女に委ねたくなる。
「こわい……私も」
「誰も君を傷つけない。僕がどこまでもついていくよ」
「ふふ、たのもしいの……」
「だから、君のこと好き放題させてね」
「うん……えぇ?」
 私の反応より先に彼女が動く。フェリスのぷっくりとした唇が私の額に吸い付いてしまう。チューチューと音を立てて吸い付くものだから、凄くこそばゆい。どうしてフェリスはいつもこう、搦め手で攻め立ててくるのか。
「うぅ……くすぐったいからやめてよー」
「ステラの可愛いオデコがあるんだもん。吸うしかないよ。ほっぺもー」
 両方の頬が満遍なく吸い付かれる。それだけならまだしも、瞼も眉間も鼻頭も好き放題キスされてしまう。しかし唇同士はお楽しみのつもりなのか上手く避けてくる。焦れったい。
「するならしちゃいなさいよ!」
「わっ、していいの? 特別な日以外しない約束なのに」
 ――特別な日。十二月二五日。私の誕生日だ。
「はやくして!」
「ふふ、おませさん」
 視線がピッタリと重なる。柘榴の瞳がランタンの炎に照らされて宝石のように煌めく。少しずつ、確実に、彼女との距離が狭まっていく。早く、あの淡桃の唇が欲しい。居ても立ってもいられず、ついに自分から身を乗り出した。
「んむっ――」
 不意にランタンの灯りが消え、周囲が夜の暗闇に包まれた。キャンドルが燃え尽きてしまったのか。だが、フェリスの唇の感触だけは確かにそこにある。私は今、彼女と触れ合っている。
「んんぅ、ぷはぁっ、ふふふ、欲求不満だね」
「だってしたいんだもん。それよりいつ教えてくれるの」
「ディープキス? 君にはまだ早いかなぁ」
 そう言うとフェリスは絹の擦れる音を立てながらベッドから這い出た。化粧台の上の赤燐マッチを取ったのだろう。案の定すぐさまボワッと火が着いて室内が明るくなる。彼女は手際よく代えのキャンドルに火を移し、ランタンを開けて挿し直した。
「こう、魔法でいいんじゃないの。朝のコーヒーみたいに」
「あぁ、アレ? アレは体力使うからね。疲れない為に便利な道具を使うんだよ」
「まぁ、そうかもね」
 裸の彼女がベッドに腰掛けて私に背を向ける。大まかなラインはやはり細身で華奢に見えるが、その背中には暖力のあるしっかりとした筋肉が通っている。つい最近まで私を背負ってくれていた大きな背中だ。すごく頼もしくて、とても羨ましい。
「すごいわね……ペタペタ」
「ペタペタって、なにそれ、ふふ、くすぐったいよ」
「あーあ、私フェリスみたいになりたいのに」
「僕みたいに? 君は僕なんかよりずっといい女になれるよ」
「フェリスよりも素敵な人、知らないわよ」
 そう言って彼女の腰に手を回し、立派な背中に私の自慢の胸をぎゅうっと宛がう。私なりの彼女への感謝の礼だ。こう言った性的なアピールは普段はしない。だって私たちは姉妹なのだから。でも、彼女が真に望むなら、私は喜々として彼女の恋人になる。だって彼女は、私の為に姉になってくれているのだから。
「キスしたんだし、特別な日にしましょうよ」
「……いいの?」
「素直に喜んでよ。愛の告白なんだから」
「だって、いつも言ってたじゃん。姉妹だからそういうのはダメだって」
「そう、ね。うん、そうなんだと思う。でも、もう、誕生日とか記念日とか、そう言う特別な日ならキスしても許されるなんて言い訳、いらないのよ。貴方と私が過ごす毎日が、特別な日でなくちゃいけないんだから――」
 言い切ると同時だった。不意に振り返ったフェリスがその持ち前の筋力で私をベッドの上に押し倒した、かと思うとお互いの指が絡みあうように両手を重ね合わせる。本当に、恋人以上の関係になったような感じがした。心臓がどくどくと強く鼓動している。このまま好き放題、愛されてしまうのだろうか。未知への恐怖と興奮が私の心臓を更に加速させる。
「――ふふ、なんかこう言うの、ガラじゃないよね」
 そう言って彼女は絡みあった指を解く。そのまま私の後頭部を片手で支え、もう片方の腕で私の背中を力強く抱きしめる。彼女の顔がすぐ傍まで近づく。ガーネットの瞳が私を捉えて離さない。蛇に睨まれたのだ。もう、逃れられない。
「君はもう大人だよ。ステラ」
 ――優しい囁き。瞬き一瞬、眼を瞑ればもう二人の距離は存在しない。あの瑞々しく柔らかな唇と今一度触れ合う。彼女の熱い舌先が、私の唇をこじ開けて中に入ってくる。彼女の舌が私の舌の上をそっと撫でた、かと思うとそのまま力強く絡みつき、蹂躙する。彼女の唾液と私の唾液が混ざり合う。きっとこの蜜はこの世でもっとも甘いのだろう。
「んぁっ……んぅっ」
 開いた両手で小さな身体を抱き返して、肉欲を貪るがごとく彼女を求める。姉妹であることなど最早問題ではない。私達は本能の赴くままお互いの肉体を求め合う、二匹の牝なのだ――
「んぁ……んぅ……あぅ、なんで人間って雄がいないのかしら」
「ぷはぁっ……あー、人間に雄がいない理由?」
「だって最近あったでしょ。進化論がどうのこうのって」
 ここ数年は話題になっている進化論。人間はサルから進化したと言うものだが、それの反論の一つに、人間の性が一つしか存在しないことが挙げられている。猿や哺乳類だけならまだしも、身近な大型動物は大抵性別を二つ持っている。両性具有だとか雌雄同体だとかそう言う動物は私の知る限り、だいたい人間とは遠縁の存在のように見える。例えば、エスカルゴとか。
「簡単なことだよ。太陽の異常さ。太陽エネルギー、僕はティファレートって呼んでるけど、それが猿を人間に進化させたんだ。代わりに人間から性別を奪ったけどね」
「何よそれ。星が私達を作り出したって言うの」
「そうだよ? 天体のエネルギーってすごいんだから。見せてあげようか」
 不意を突かれた。またしても唇を奪われる。
「んぅ……見せるって何をよ」
「星、見に行こうよ。ステラ――」



 夜天の甕星が、道祖たる月の光が、暗き森を切り拓く。その先に聳え立つは灰の古城。魔物の深淵たる瞳孔が睨みつける。怪獣が求むるは星霜の代行者。新生が、来る。



夜間に出歩くことはあまりない。城の中はともかくとして、やはり外は寒いものだ。身体を暖かく包み込んでくれる毛布を恋しく思わない日はない。
「肌寒いわね。これだとちょっと薄着かしら」
 薄地の服の袖に腕を通して胸元のボタンを閉める。如何せんシンプルで可愛くないのが特徴だが、変に締め付けられることもないので非常に動きやすくて気に入っている。どうにも最近の服飾は装飾過多に思えて仕方がない。フリルなんかより物が入るポケットをつけたほうが実用的ではないだろうか。
「夜だしね、もっと暖かくしたほうがいいよ。ほら」
 そう言うとフェリスは年季の入った山羊毛のコートを肩にかけてくれた。使い込んでいる様子はあるが、綺麗に仕立て直されていてあまり気にならない。それに先ほどまでフェリスが着ていたらしく、なんだか人肌ほどに温まっていて着心地が良い。
「あれ、なんで温かいのよ。氷の悪魔でしょう」
「えっ、ただの冷え性だってば。低体温は別に基本状態じゃないよ!」
「えぇ、あー、キス熱かったわね」
 二人して間の抜けた顔になった、かと思うとすぐにクスクスと含み笑いをしだす。暗い部屋を後にして、二人寄り添って談笑しながら歩き出す。この長い廊下がただ延々と続いていればいいのに、そう思えるほどの楽しくて優しい時間。とは言え私の部屋は玄関前の階段を上がってすぐ横なので、ちょっと降りればすぐに戸口についてしまうのだが。
「ちょっと重いわね。蝶番取り替えたほうがいいんじゃない」
「大きいドアは職人呼ばないとなぁ」
 城門は既に打ち捨てられている為、この木製の大扉が城で最大の扉と言うことになる。こんな山奥の森に隠れた古城、野獣だろうと野党だろうと寄り付かないので防犯を気にする必要もないのだが。フェリス曰くこの城は悪魔の友人から別荘地として買い付けた物だとか。フェリスの言う悪魔の友人に会わせてもらったことはない。実を言うとそう言った存在には懐疑的である。フェリス以外の特別な存在に出会ったこともない。私が知る限り、魔法なんて使える人間はフェリスと、お姉ちゃんだけだ。
「あぁっ、ほら、今日は快晴だったから」
「あら……あらあら、素敵じゃないの!」
 木製の大扉が音を立てて開くと同時に、視界には満天の星空が広がった。色とりどりの宝石は夜陰のカーテンの上に飾り付けられ、きらきらと瞬いている。十年も住んでいたというのにこんな星空を見たのは今日が初めてだ。
「ほら、見ててよ」
 フェリスがパチンと指を鳴らす。彼女の細長い指が天蓋に縫い付けられたサファイアを指し示した。その煌めきは彼女の指先にそっと纏い付き、彼女が宙を切ると同時にその場に淡い光の糸を紡ぎだす。フェリスの描いた青紫のハートマークは彼女の吐息によって運ばれ、私の胸にそっとぶつかる。途端に光の糸は解けて散り散りになってしまった。
「あっ……ねぇ、私にも、できる? その」
「魔法、がいい?」
 フェリスが不敵に笑う。彼女は、彼女の能力を『魔法』とは呼称しない。それが何を意味するのかはわからない。
「だって、魔法でしょ。じゃなかったら神秘よ」
「そう、神秘でも、魔法でも、或いは科学でもいい。名前はどうだっていいんだよ」
 彼女が私の背に回りこんで身体をピタッと張り付かせる。白く細い指が私の指の上に重なる。冷たいような温かいような不思議な感覚。
「だって、できることなんだから。呼吸と言う言葉を知らなくても、息は吸えるよ」
 フェリスの人差し指がピンと伸びると、私の指も張り付くようにそれを追う。そのまま彼女の手に引かれて私の指先は黄色の星を指した。
「そう、特別なことじゃないんだ」
 フェリスが耳元で囁いた。彼女の呼吸が間近で感じられる。フェリスの指先に金色の光の糸が絡め取られる。巻き付いた光の糸が指の腹に触れた。指で物を見ているような、或いは鋭利な光に刺されるような、そんな感覚。
「だからこそ、君はこの能力を何とも思わなくなってしまう。魔法だとか神秘だとか、そんなロマンめいた言葉を使おうとは思わなくなる。いつかは輝きを失っちゃうんだ。例えそれが世界中で君だけが持つ能力だったとしても」
 フェリスの手は私の手の上から離れた、かと思うと後ろから私を強く抱きしめてくる。
「特別じゃなくても、ずーっと素敵なら、それでいいじゃない」
「特別じゃない、素敵な物?」
 一際目立った紅色の星に指を突き出す。フェリスが教えてくれたように、だけど私らしく強引に、光線を私の指に引き寄せる。そうして彼女と同じように夜空に真紅のハートマークを刻み込む。
「私達の――」
 言いかけて、噤む。これ以上言うのはなんだか野暮だ。
「ふふ、君らしくないよ。でも、確かに素敵だね」


――続きは書きます――

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