星空のステラ プロローグ

 ――あの人は、お姉ちゃんはもういない。

「うわっ、ホコリだらけじゃん!」
 そう言って彼女は大きくため息を付いた。私は無造作に投げ出された本の山を崩さないように、そっと隙間を練り歩いて窓際まで辿り着く。閉め切った窓を開けて、風を部屋の中に取り込む。外には気も晴れるような青空が広がっていた。
「まぁ、でも、掃除し甲斐があるんじゃない?」
 私は彼女にそう言いながら近くに落ちていた一冊の日記を手に取る。一八五六年と印刷された背表紙の裏に書かれている私の名前。そのすぐ横に幼い私の文字で、フェリスと書き足されているのを見て不思議と笑ってしまう。
「あ、この名前、君が書いたの?」
「多分そうよね、私の字だし。それにしても懐かしいわねぇ」
 窓際に置いてあった埃まみれのソファーに腰を掛けて、その日記を開く。一ページ目にはあの日の大切な思い出が書き綴られていた。そう、あれは――

ふと、窓の外に目をやる。知らぬ間に雨が降り始めていた。打ち付けられた雨水がガラスの表面を張って下へ下へと落ちていく。太陽は雨雲の裏に隠れてしまって、辺りはすっかり薄暗い。考え事をしていて全く気が付かなかった。
近くにあったロウソクにマッチで火を灯し、カーテンを閉めてソファーに座り直す。昔のことを思い出していた。過去に置いてきたはずの古い思い出だ。この二階の書斎にいると嫌でも彼女のことを思い出してしまう。
私には姉がいた。名前は、よく覚えていない。私はただ「お姉ちゃん」とだけ呼んでいた。今思うと彼女が直接私に名乗ったことは一度もない気がする。私の記憶が正しいとするのならば、彼女が他人に名前で呼ばれることはなかった。私にとっては、私の大事なお姉ちゃんでしかない。私に居場所をくれた、大切なお姉ちゃんでしかないのだ。
実の姉妹ではない。私に両親の記憶はない。私が覚えている最初の記憶は彼女と出会った日の思い出だ。お姉ちゃんは煌めく銀色の髪を靡かせて、私に手を差し伸べてくれた。どこで起きた出来事かは覚えていないが、その直後の彼女の優しい口づけだけは今でも克明に覚えている。「今日からずっと一緒にいてあげる」それが彼女との最初の会話だった。
幼い私は彼女に一種の情念を抱いていた。憧れにも恋心にも似た感情。彼女の傍にいたい。彼女と同じ立場にいたい。彼女と一つになりたい。年端もいかない少女にそう思い込ませるほどに彼女は愛おしかった。私が求めるものはなんだって用意してくれた。美味しい料理。流行りの本。手作りの人形。そして、傍にいてくれる人。あの人が傍にいるだけで、幸せだった。
「……嘘つき」無意識が私にそう呟かせた。
 もうずっと前だったか、ちょうど十月のこの時期に、彼女は忽然と姿を消した。別れの挨拶も言わず、置き手紙も残さず、ただこの屋敷だけを残して。
不意に屋敷のベルが鳴らされた。誰か来たのだろうか。カーテンの隙間から玄関を覗く。ここからではよく見えないが、人が玄関先に立っていることだけは確認できる。多分知らない人間だ。郵便屋か何かだろうか。わざわざこんな雨の日にご苦労なことだ。
あの人には悪いが居留守を使わせてもらおう。誰にも会いたくない気分だ。それでなくても他人が怖いというのに。私はロウソクを吹き消して目を瞑った。
瞼の裏には闇が広がっていた。闇の中は安心できた。私を虐げる者がいないからだ。お姉ちゃんが消えた後、私はずっと一人で生きてきた。人々は私を魔女と蔑み、傷つけ、迫害した。女王陛下が懇意にしてくれたおかげか、今では石を投げつけられることなんてないが、屋敷から出ることすら躊躇ってしまうほどに私の精神は磨り減った。死にたいとまで思ったことがある。この死ねない身体ではそれは不可能だが。もう何ヶ月も物を口にしていない。
二度目の呼び鈴が鳴らされた。屋敷の全部屋に音が届くように設計されたベル。その音は鼓膜に突き刺さるほどにうるさい。しばらくしてから三度目四度目と続き、挙句の果てには玄関のドアを叩く音まで聞こえてきた。妙に粘り強い客だ。
「……はぁ、うん」
 深くため息を付いて立ち上がる。しつこい人間は早めに追い返したほうが得策だ。新しいロウソクを持って書斎から飛び出し、階段から一階へと降りる。
私が着いた時にはもう既にノックの音は止んでいた。深呼吸してドアノブに手をかける、が開ける勇気が出てこない。人に会うのが怖い。どう話せば良いのかがわからない。挨拶の仕方ももう覚えていない。きっと、気味悪がられる。
そう思ってドアノブから手を離そうとしたその時だった。
「大丈夫だよ。出てきてよ、ステラ」
 女性の暖かく優しげな声が扉の向こう側から聞こえた。自分でも忘れかけていた私の本当の名前。知る人間はいないはずだ。いるとしたらただ一人。でも、あの人の声じゃない。
意を決して扉を開く。私の前に現れたのは、ずぶ濡れのテールコートを着て、紫がかったシルクハットをかぶった一人の女性。初めて出会う人間。でも、お姉ちゃんと同じ眼をしている。ガーネットのように輝いた赤色の瞳。
「ふふ、聞いてた通りあの人にそっくりだね。吸血鬼の館、なんて噂されてたから心配しちゃったよ」
 そう言って女性は私の頭を撫で回す。彼女の雪のように冷たい手が私の頬を擦る。不思議と抵抗する気が起きない。あの人と同じ香りがする。鉄にも似た潮の香りと瑞々しい青葉の優しい香り。あの人と一緒に歩いた海辺の記憶。
「遅れてごめんね」
「……だれ、なの?」
 拙い言葉で、彼女にそう尋ねる。彼女はそっと微笑み返してから、私をぎゅっと抱き寄せた。
「僕? 僕の名前は――」
 彼女との、始まりの記憶。


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